〜〜〜 基 山 〜〜〜
≪ 令和4年5月10日 (火) ≫ |
≪ 5月10日(火) ≫
今年の春の植え替え作業も無事終えて、やっと一段落といった状況になった。
そこで、山を計画し、佐賀県基山町にある基山に登ることにした。
この山は、女房が学生時代に友達と登っていた山であるが、小生は初めの山である。
基山町の現在の町長は松田氏で、かっての職場の同僚であった。ネットで確認するとお元気にご活躍の様子である。
近くに来たときは寄ってくれと言われていたが、山の帰りに寄るのは何となく気が引けるので止めておこう。
なお、町は「きやま」であるが、山は「きざん」と称す。これは1889年(明治22年)に周辺4村が合併し、基山村ができたが、これと区別するために「きざん」とされたものである。
8時半に自宅発、福岡都市高速から九州道へ、ここからかっての有料道路である鳥栖筑紫野道路を走り、原田ICで降りて上原田公園へ。
高速を降りたところで少しまわり道をしたので、9時半に公園着。
基山へは登山コースがいくつもあるが、今回はこの原田コースにした。
公園に山の案内もあるかと思っていたが、何もなかったので、少し詳しく登山コースを記載していくこととしよう。
この公園にはアスレチックの遊具が多数設置されており、子供連れには楽しめる公園になっている。少し公園を散策し、10時過ぎに公園を出発する。
来るときに曲がってきた交差点から、左手には卵を販売している養鶏場があるが、そのまま直進して行く。
50m程進むと、左手に分岐があり、この角に小さく「基山」との表示がある。
しばらく竹林が続く。大きなタケノコも残っていた。まだ茶色の皮をかぶったものがあったので、今年伸びたタケノコのようだが、その成長の速さに改めて驚かされた。
何か声がするので何の声かなと思いながら進んでいくと、フェンスの向こうでヤギがこちらを見ながら「メー、メー」と挨拶をしていた。ずいぶんと人なつっこいヤギであった。
竹林を抜けると、建物や畑などがまばらに点在しているが、人の気配は全く感じられない。
そのまま歩き続けると、やがてY字路に出て、ここにも左手の道に「基山」と小さな案内板が掲げてあった。
この道に入る。そのまま道なりに進んでいくと、右手に道祖神のようなものがあり、すぐその先に階段状の登山道がある。
ここまでゆっくり歩いて30分ほどかかった。
いよいよ山道に入る。階段状の山道を登って行く。
しばらく登っていくと、やがて右手に民家のような建物が見えてきて、左手には不動明王が祀られていた。
更に道なりに登っていくと、休憩所のような建物があって、その先には聖観音菩薩が祀られていた。
この山も信仰の山で、仏教ゆかりのものが多く設置されている。
更に登っていき、わずかなピークを過ぎて下っていくと、「東北門跡」の広場に着いた。ここにはベンチも設置されていた。
ゆっくりと登ってきたので、ここまで40分ほどかかった。
ここで小休止して進む。
沢に架かる木の橋を渡って、少し高度を上げていくと、やがて「丸尾礎石群」に着いた。かっての山城の後であろう。
この場所では土日に「ウクレレミニライブ」が開催されているようだ。
また少し進むとすぐに「礎石群」があって、多数の礎石が散在している。
更に登っていくと右手に「北帝門跡」の案内があり、やがてすすきの原が見えてきた。山頂が近くなったようだ。
少し急な登りがあって、その先には広い山頂広場があった。
展望台も設置されているが、そこに登ってみても山頂との表示がない。
山頂はどこなのか???
先の方の左手に小山があるので、そこが山頂なのか?
とりあえず場所がいいので、ここに座り込んで昼食休憩にする。
山頂周辺には貴重な「翁草」が繁殖しており、花の名残があちこちに残っていた。
休憩後、先の小山に向かう。山に近づくと、右手に「いものがんぎ」との案内があった。
「がんぎ」とは階段状のことで、宝満山にも「百段がんぎ」がある。ここは丸い「いも状の小山」が階段状になっているとの意味なのか、詳細は不明である。
左の小山の一本木の横に狭い登山道が見えた。
ここを登っていくと、やっと山頂の表示があった。
広場には案内もなく、初めてきた者には分かり難い山頂の場所である。
山頂の先には高い塔があって、下に降りて確認すると「天智天皇」の碑であった。
基山の中腹に築かれた山城は「基肄(きい)城」である。
ここで少し歴史をたどってみよう。
7世紀後半に、朝鮮半島で中国の唐と新羅の連合軍が百済を滅ぼした。その百済復興のために日本が援軍を出したが、大敗を喫してしまう。このため、連合軍が日本にも責めてくるかもしれないという情勢の下で、665年にこの「基肄城」が築かれた。
百済高官の指導の下に築かれた朝鮮式の山城で、我が国最古の山城と言われている。
この「基肄城」の建立を決めたのが天智天皇であった。
現在、中国や韓国の歴史ドラマにはまっているが、「百済の王 クンチョゴアン」を見ているので、百済を何となく親しく感じる。
また、この基山には「大伴旅人」も何度も登っており、基山で詠んだ3首が万葉集にも収められている。
「令和」の由来も、この大伴旅人の歌人グループの作が根拠とされている。
ネットで確認していると、かの「田中陽希」氏も日本300名山でこの山に登っていた。
田中氏の300名山踏破の行動にはまったく驚嘆させられた。
山頂が確認できたので、これから下山に向かう。
また登ってきた道を戻る。
下山もゆっくりで、登山口までほぼ1時間、公園の駐車場まで30分で降りてきた。
この山の標準タイムは往復で2時間半足らずであるので、ずいぶんとゆっくりな登山であった。
山支度を解いて、車に乗りこみ、帰りに大宰府近くの大佐野に在住している妹宅によって、植え替えた鉢植えの植物15鉢ほどを差し入れして帰ってきた。
基山は山の案内が今一であったが、山そのものはなかなかに魅力的な山であった。
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