〜〜〜  四国&山陰・タイムスリップ旅  〜〜〜 

《 1966年(昭和41年)7月18日〜30日 》 

 旅の予定がなくなると、旅の記録が作れず何とも物足りない。

 そこで、学生時代のアルバムを見ていると、四国旅行の写真とメモが出てきた。

 よって、当時を懐かしく思い出しながら旅を創作してみることとした。


 
☆ 7月18日〜19日 ☆
 

 大学生となって2年目の夏休み、友人と旅の計画を立てた。

 当時はアルバイトをしながら、小資金が出来ては山に登ったり、ユースホステルを利用した旅にでかけていた。
 キャラバンシューズにザックをかついでの旅であるが、この様を当時は「蟹族」と称 していた。この言葉の語源は、ザックを蟹の甲羅に見立て、当時の国鉄の改札口を通る時にザックが邪魔にならないように横向きに通ったことからきている。

 同行者は、小学校から中学、高校、大学まで同窓の長尾君とその友人の島津君、もう一人、小学校から大学まで同窓の玉川君は見送りに博多駅まで来てくれた。
 この玉川君は大手建設会社に就職し、大阪や名古屋の支店に勤務していたので、小生が東京での会議を終えた後、大阪や名古屋に立ち寄り、よく一緒に飲み歩いたものである。今は病気で亡くなってしまったが、本当におしい友人を無くしてしまった。

 博多駅発21時21分の夜行列車に乗って、広島へ。
 この旅では周遊券を利用したが、料金は6,952円とメモが残っていた。またユースホステルは当時は1泊2食で500円程度であった。
 なお、当時の日本育英会の一般奨学金は月3千円であったが、これはとても有難かった。
 また、アルバイトはデパート等の長期のものは日当700円程度であったが、専門的な、例えばスチール椅子の組み立て等は、千円を超えていた。 高収入に魅せられて沖仲仕(現在では差別的ということで使用されていないが、当時の呼び方そのままで:港湾での荷物運搬が主な仕事)も経験したが、その重労働に耐え切れず3日でやめたこともあった。
 高校時代の友人である高尾君と引越しの手伝いに行った時は、契約日当は1300円であったが、いただいた封筒の中には2千円が入っていた。多すぎたので、その旨を伝えると、 「気持です。」とのこと。有難くお礼を言って、早速これで中州で打ち上げし、一晩で使ってしまった。

 広島5時半着、ここを素通りするのは忍びないので、市電にて平和公園へ。平和公園で祈りをささげ、1時間ほどで駅に戻り、駅で朝食を済ませる。 
 広島駅から国鉄で仁方へ。ここから国鉄航路で堀江へ。9時32分発、11時55分着。

 堀江からまた国鉄で松山へ。12時15分着。
 歩いて松山城へ。ここで、大学の同じ機械工学科の原田君と山下君と会った。これは驚きであったが、小生のスケジュール表を見せていたので、密かにたくらみ、同じ行程で二人で旅することにしたようだ。

 子規堂へ立ち寄り、そのまま奥道後ユースホステル(以下、YHと記す)へ。食事を済ませて、ペアレントのもとでミーティングを済ませて早目に休む。これで旅の2日目が終わった。

 

☆ 7月20日 ☆

 朝、6時に起き、ホステラー全員で表に出てラジオ体操をする。
 食事を済ませて、7時45分出発、ロープウェイで下に降り、奥道後バスで松山駅に向かう。
 松山駅発9時39分で宇和島着12時38分。

 宇和島で島津君は散髪へ。旅先で散髪とは何ともおしゃれである。小生は長尾君と「のぞき岩」を見にバスに乗る。20分で着いた。見てすぐバスに戻る。何しろ乗ってきたバスで戻るのだから!

 14時25分宇和島発、16時45分滑床着。萬年荘YHへ。本日はフルに移動日であった。とにかく四国をぐるりと周るので移動に忙しい旅である。


☆ 7月21日 ☆

 
滑床から宇和島に戻り、宿毛にて昼食を済ませ、急行で龍串へ向かう。
 
 
今日はYHで一緒になった原田君と山下君、他に女性6名と次のYHまで同行する団体旅となった。
 龍串、見残しにて海岸の自然の偉大な造形を楽しみながら、写真撮影が忙しい。

 竜串からバスにて足摺岬へ。バスに乗っている間に日もたっぷりと暮れた。
 バス
を降りて、歩いて1分で金剛福寺YHへ。四国はお寺を開放したYHが多い。

 
☆ 7月22日 ☆

 足摺岬から土佐清水に出て高知へ向かう。
 バスにて足摺岬発9時25分、土佐佐賀着13時15分、ここから国鉄で土佐清水発14時30分、高知着16時27分、今日も一日移動日であった。 筆山YHへ。

 ここでは、キャンプファイヤーを囲んでのミーティングを楽しんだ。歌で「筆山YH(ワイエッチ)」と歌うのを、誰かが「筆山はエッチと聞こえてしようがない!」とぼやいていた。

 この地方の「わらべ歌」がメモされていた。
  ♪ ひよりに雨がふりゃ きつねの嫁入り だんだん畑のひがし山 うりの子まっきにうれたね ♪

 
☆ 7月23日 ☆

 朝食を済ませて桂浜へ。5色の石を拾い集めて、高知駅から後免へ。ここから電車で安芸へ。

 軽く昼食を済ませて室戸岬へ。バスにて2時間20分、バスを降りて、岬の岩場で遊んで東寺YHへ。

 夕食前にご住職に呼ばれた。何事かと真面目に構えていると、「あなたの名前は素晴らしい。」とのこと。
 その後、「今日のミーティングの進行役をお願いしたい。」とのこと。ペアレントの代理を依頼するためのおだてであった。断る理由もないので、快く引き受けることにした。

 長尾君に助けられながら、進行役を務める。ゲームをした後、皆で歌を歌い大いに盛り上がって、無事に大役を終えた。
 なお、この頃、YHで歌っていたのは、色々な山の歌から旅の歌で、「あざみの歌」や、北海道では「まりもの歌」もよく歌っていた。また、イスラエル民遥である「シャロームの歌」 ( ♪ どこかでまたいつか会えるさ また会おう また会おう  どこかで ♪ ) もよく歌っていた。これらの歌は今でも山の会等で懐かしく歌うこともある。

 ※ シャロームの歌はダークダックスや女性歌手のUA(ううあ)にカバーされており、YouTubeで確認できます。
  

☆ 7月24日 ☆

 東京からの女性二人同伴でYHを出発する。
 女性の一人はトランペット、一人はギターを抱えての旅で、誰もいないところで演奏を楽しんでいるとのこと。

 バスにて安芸へ戻る。ここで昼食を済ませて電車で後免へ。ここから国鉄で土佐山田へ。土佐山田で龍河洞へ。

 駅に戻り、女性二人はここから高知へ向かうためここで別れる。
 我々3人は国鉄で富永へ、更にバスにて栗生へ。定福寺YHに着いた時は20時を過ぎていた。


☆ 7月25日 ☆

 YHを8時に出発、国鉄で大歩危に向かう。ここで川下りの船に乗る。
 ここから阿波池田に向かい、更に鳴門へ。

 鳴門YH着、17時半。ここに原田君からのメッセージが残されていた。「あまり食べ過ぎないように!」とのこと。


☆ 7月26日 ☆

 鳴門発8時38分、池谷で乗換え、高松に着いたのは12時過ぎであった。

 歩いて栗林公園へ。その後玉藻公園をぶらつき、関西汽船に乗って小豆島へ。
 土床からバスにて小豆島YHへ。

 このころは記録のメモの内容も少ない!!!


☆ 7月27日 ☆

 YHを8時半に出発、バスにて寒霞渓へ。しばし絶景を楽しむ。

 ロープウェイで降りて、バスにて坂手へ。そこから土床へ。
 船の時間を間違えて出港したばかりであった。長尾君は次の便を待つと言う。島津君と小生は他の汽船(別途、料金を払って)で岡山へ向かう。
 旅も長くなってくると、疲れも出て妥協ができなくなり自己主張が強くなる。このような時は、素直に別行動をした方がいい。

 後楽園に立ち寄って、岡山青年会館へ。長尾君も追って到着した。


☆ 7月28日 ☆


 岡山駅から、長尾君は後楽園へ。我々二人は津山へ向かい、駆け足で衆楽園と鶴山公園を見て回り、長尾君が乗ってきた列車に乗り込み、合流して鳥取へ向かう。

 鳥取に着いて、駅前で昼食を済ませ、バスにて鳥取砂丘へ。展望台に登り、次にリフトに乗って砂丘へ。
 広大な砂丘を走りまわって楽しむ。

 山陰線にて上井へ向かい、香宝寺YHへ。


☆ 7月29日〜30日 ☆

 朝5時に目覚める。
 宿泊ホステラー全員で近くの湖へ散歩に出かける。

 船にて松崎駅に渡り、出雲へ向かう。途中で同泊の女の子(高校生)二人と合流し、同行することになった。
 島津君とは大山口で別れたので、長尾君と4人で出雲大社から日御岬へ。
 
 出雲駅に戻って、女の子二人は松江へ。
 我々は23時20分発の夜行急行を待つ。

 これで全ての旅の行程を終えた。後は帰路につくのみである。

 30日のメモは残っていないが、早朝に博多駅着、無事帰宅した・・・。ということだろう。

 ほぼ予定どおりの行程で旅を終えることができ、大満足の旅であった。小生の作ったスケジュールでの旅であったが、長尾君と島津君は満足できたのだろうか?
 旅は道連れで、YHから次のYHへぞろぞろと大勢で歩き回ったこともあった。このような旅の出会いが、更に旅情を高めてくれる。
 今では、車社会となったので、このような時間がかかる旅を楽しむ学生はいないだろう。

 テレビで路線バスの旅や路線バスを乗り継いで目的地へ行く旅の番組があるが、それを見ていると、のんびりしていいものだと昔を思い出しながら番組を楽しんでいる。

 さて、時節柄、そろそろ京都の紅葉旅を思い立つとするか・・・。