〜〜〜  焼   酎   〜〜〜  


 九州と言えば焼酎、焼酎と言えば九州というくらいに九州は焼酎王国である。

 焼酎は昔から日本全国で生産されていたが、終戦後は連続蒸留したいわゆる甲類の焼酎が主流であり、本格焼酎と称される単式蒸留の乙類の焼酎については、地元で消費されるのみであり、この頃はあまり評価もされていなかった。

 この焼酎の起源を辿ってみると、1546年に鹿児島を訪れたジョルジョ・アルバレス(ポルトガル人)が米焼酎 を飲んでいたと記録している。また、鹿児島県大口市にあった八幡神社の改修工事をする時に、宮大工が神主がケチで
「一度も焼酎を不被下候 何ともめいわくな事哉  永禄2歳8月」と木片に記載していたのが見つかっているのは有名である。これが1559年のことで 、日本での記録はこれが最も古いものとされている。なお、当時鹿児島ではまだサツマイモの生産はされていないので、これも米焼酎であったと推察される。

 江戸時代になると、薩摩藩が琉球を支配するようになったことから、参勤交代の際に「泡盛」が江戸にも持ち込まれ、蒸留技術が各藩に伝えられ、ここから日本全国で 日本酒の粕取り焼酎が生産されるようになった。

 蒸留器は琉球から伝わった「カブト式蒸留器」が主流であったが、昭和40年代後半に「減圧蒸留装置」が導入されるようになってから、飲みやすい焼酎が生産されるようになり、ここから本格焼酎のブームが一気に始まる ことになる。

 九州で有名な焼酎は、熊本の「球磨焼酎」、鹿児島の「薩摩焼酎」、長崎県壱岐島の「壱岐焼酎」が 3大焼酎(自称)で、これに鹿児島の「黒糖焼酎」、沖縄の「泡盛」、大分の「麦焼酎」等々が加わる。珍しいものでは宮崎の「蕎麦焼酎」、福岡の「胡麻焼酎」といったものもある。

 
 
〜 ヨロンケンポー(与論献杯)の思い出 〜

 昭和40年代も終わり、間もなく昭和50年を迎えようというまだ若かりし頃、仕事で鹿児島の南西諸島へ行った。

 月曜日の朝、博多から国鉄で西鹿児島へ、夕方、港で船(クイーンコーラル号)に乗り込んで、奄美大島経由でまずは徳之島に向かう。当時はまだ南西諸島の島々には空港がなかった。
 2等船室に入り、枕と毛布と寝転ぶ場所を確保し、荷物を枕元にまとめておく。早速、広々とした食堂に出かけ夕食を済ませる。食後、船内をぶらついていると、食堂で映画が始まった。少し覗いてみたが船内で映画というのも旅情がないので、デッキに出て夜風にあたる。 月明かりもなく、辺りには何も見えない。エンジン音が小気味よくリズムを刻みながら、船は黙々と進んでいく。船室に戻り、寝転んで本を読む。 地元の方同士で話をされているが、日本語?という感じでよく理解できない。うつらうつらしていると汽笛がなり、奄美大島に着いた。まだ、朝は早い。ここで降りる人が多い。

 ここから徳之島に向かう。間もなく徳之島に着いた。迎えに見えた方と一緒に、早速、製糖工場に向かい、一仕事済ませる。徳之島には4つの製糖工場があるので 昼からもう1工場と、明日は残りの2工場を回らなければならない。 昼からの仕事も終えて、旅館でくつろぎ、会社の方と黒糖焼酎で料理を楽しむ。会社の方を見送って風呂に入り、湯冷ましに海岸を散歩する。島には無駄な明かりもなく、静かに 夜がふけていく。
 3日目、仕事を済ませて、また黒糖焼酎を飲む。魚がおいしく、従って焼酎もうまい。

 4日目、また船に乗って沖永良部島に向かう。ここでも製糖工場で一仕事して、また黒糖焼酎を飲む。

 5日目、船に乗り、今回の出張の最大の楽しみであった待望の与論島に向かう。夕方着いたがその足で製糖工場に向かい、一仕事すませる。汗をかいたまま着替えて、すぐに海岸に 案内される。海のかなたを指差しながら、「あそこが沖縄で、間もなく海洋博が始まります。」と説明される。
 絶景の海を眺めながら海岸に座り込む。すぐ横には製糖工場の社長が座られる。左右2列に人が座られ、総務部長、製造部長・・・会社の幹部の方々が並ばれている。正面には若い男性と女性が座られる。
 「ようこそはるばる本土からお越しになりました。・・・」と口上が始まる。5日目に着いたから「はるばる・・・」はいいが、「本土」という言い方は、島の素朴さそのままの表現なのか。
 席の前には海の幸が並んでいる。正面に座っている青年が「朝から海にもぐってとってきました。」とのこと。伊勢えびも豪快に盛られており、焼酎が進みそうになるのを抑える。
 「黒糖焼酎はどうですか?」と社長から聞かれ、「おいしいですが、あまり強くはないものですから。」と答えたら、社長が「いやいや、かなりお強いということは聞いていますよ。」とのこと。何のことはない。徳之島、沖永良部島で 伊勢えびや夜光貝などのさしみがおいしかったため、焼酎をかなり飲んで来たことが既に情報として入ってきていた。ここでは苦笑いするしかない。

 ここで、「ヨロンケンポー 」がいよいよ始まった。出張に出る前に先輩から聞かされていた 話では、3段重ねの杯に、上から順に焼酎をついでいき、こぼれるままに3段目までつぐ。それを上から順に飲み干していくというもの。海を眺めるふりをして、3段重ねの杯があるのかなと目で探していたが、見当たらないので少し安心していたら、1升は入るという大杯がおもむろに出された。話に聞いていた3段重ねの杯ではなかった!
 青年が正面ににじり寄ってくる。「寄るな!」とも言えない。与論島の唯一の焼酎である「有泉」をコップに注ぐ。それを大杯に注ぐ。それを2回繰り返す。都合3合を注いで、青年が3合でこのくらいですと大杯のラインを示し、それを一気に飲み干す。
 大杯をおもむろにささげられる。もう逃げられない。本来、飲めないといえば、遠慮してくれるのだが、飲める口を持っていることはバレていることから、諦めておもむろにいただく。青年が1升瓶を傾けてどぼどぼと注ぐ。3合のラインも無視して注ぐ。
 ここからは見得である。有泉はアルコールは20度と焼酎の中では最も軽いので、少し強い日本酒3合を一気に飲んだと思えばたいしたことはないと割り切り、一気に飲み干す。「オー!」とどよめきの声が上がった。無事、大杯が回っていく。

 それからも、総務部長が席の前に来て、コップを開けてどうぞと差し出される。有泉を注がれ、それを一気に飲み干して返杯する。製造部長がきて・・・、若い女性まで来て・・・。

 朝、ここはどこだという感じで目が覚める。天井が回っている。よく回るものだと感心していたら、自分の目が回っていた。外を見ると、目の前は海岸で、さんご礁の砂浜が真っ白に輝いている。薄いブルーの海の先には隆起さんご礁の切れ目があり、白波が立っていて、その先は一気に濃い 紺色をなしている。
 ゆかたを脱ぎ捨て、パンツひとつになって窓から外へ出、絶景の海岸を見ながら走り回る。ホテルに戻って水をガブ飲みし、また海岸を走る。走りながら、与論島 まで来て何をしているのかと自己不信に陥る。

 食堂に行くと、大きな伊勢えびの刺身がどんとテーブルに置かれている。全く食べれそうにはない。ただ見てるだけ。ホテルの方が、「この伊勢えびは、昨日の夕食で出す予定であったが、帰ってすぐに部屋に入られたままだったので。」とのこと。
 ちょうど新婚さんが食堂に見えた。朝の挨拶を交わす。「伊勢えびは好きですか?」と聞くと、いきなりだったので、旦那がいぶかしげに「ええ。」との答え。早速、大きな伊勢えびの皿をかかえて新婚さんにお祝いですと言って差し上げる。二人でびっくりしていた。

 会社の方が迎えに見えた。何でも昨日は2升弱飲んだらしい。勿論一人で。どうりで目が回るはずだと納得する。焼酎は悪酔いはしないというのは嘘だと思っていたが、焼酎に悪かった。さすがに飲みすぎである。
 与論島内を案内 していただく。島の中心で固めのさとうとうきびを齧りながら絶景の海を眺め、海岸に出て、ボートで隆起さんご礁の境界までいき、淡いブルーの海中を眺め、星の砂の海岸で 座り込んでくつろぎ、優雅な時間を過ごす。
 帰りの船がやってきた。会社の方にお礼を言って、はしけに乗り込み、またクイーンコーラルに乗り込んで再び長旅の帰路につく。

 食堂で黒糖焼酎でとどめの迎え酒をする。今回は徳之島から始まって、沖永良部島、与論島と毎晩毎晩、伊勢えびその他のうまい魚介類と黒糖焼酎に明け暮れた6日間であった。合計で何升飲んだのか・・・。

 バッグの中には各島でお土産にいただいた数本の黒糖焼酎が・・・。