《 ハプスブルク家に関すること 》 

 
 
中欧について色々と調べていると、ハプスブルク家についての認識をしっかりと持っていないと、その都市の歴史、人物、建造物等
との関係など全く理解できないことが分かった。
 そこで、さっそくハプスブルク家に関する書籍を7冊購入し、旅行前に読破してその壮大な歴史の全貌がほぼ理解できた。ここに、備忘的に主要な点のみを記述しておくことにした。

 ハプスブルク家は現在のスイス領内ライン川上流域に発祥したドイツ系貴族の家系である。歴史的に表舞台に出てくるのは、1273年にルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝についてからとなる。
 当時、皇帝は選帝候会議というものがあり、7人の各選帝侯がお互いの利益を優先してなかなか新皇帝が決まらなかったことから、最も無難なハプスブルク家から選んだというものである。ここからハプスブルク家の繁栄が始まる。

 ルドルフ1世から中世最後の騎士とうたわれた10代目のマクシミリアン1世に至り、ここで一気に勢力を強め世界にハプスブルク家の名を知らしめることになる。 また、神聖ローマ皇帝の座から、ドイツ王、オーストリア公を代々世襲していく。16世紀には「太陽の沈まない王国」とまでうたわれた。
 カール5世の後から、フェリペ1世のスペイン系と、フェルディナント1世のオーストリア系に分かれていく。 

 スペイン系のハプスブルク家は ポルトガル王も兼ね、次々に領土を拡大していったが、80年戦争や西仏戦争に敗れてから勢力は一気に衰え、また近親結婚による病弱な王が続いたこともあり、1700年にカルロス2世の死によって その後継者もなくスペイン系ハプスブルク家は1500年から1700年のちょうど200年間をもって断絶した。

 一方オーストリア系は、神聖ローマ帝国の皇帝の座のみは守り続けてきたものの、退潮の一途であったが、皇帝カール6世がこれを盛り返し、勢力を拡大してきた。しかしながら、カール6世には子供が3人とも娘であったので、女性の継承が可能なように国事詔書「女子領土相続法」を公示し、列国の承認を取り付けていた。このため、カール6世の死後、娘のマリア・テレジアが23歳の若さで大公女を承継した 。
 しかしながら、女性への承継を認めないという各諸侯の動きが出てきて、8年間にわたる「オーストリア継承戦争」が起きた。マリア・テレジアはハンガリーを味方につけてこの難局を乗り切る。
 このマリア・テレジアの活躍によって、ウイーンが当時のヨーロッパ一の都市に築かれていき、ハプスブルク家の繁栄が続く。

 マリア・テレジアの夫となったフランツ1世が神聖ローマ皇帝位を奪還したが、 この頃の神聖ローマ帝国は国家の実態を無くしていたので、実質的にはオーストリア大公の地位にあったマリアが実権を握っていた。そのためマリアは女帝 (神聖ローマ女帝)と呼ばれた。マリアは政治的にも活躍し、他国にさきがけて小学校を新設し義務教育を確立させたり、徴兵制度の革新など様々な改革を行っている。フランツは国の財産とハプスブル ク家の財産は区分すべきなど財政面で手腕を発揮し、マリアともいい夫婦中であった。その証拠に、フランツの死後、マリアはずっと喪服で過ごしたという。
 
 マリアは父カール6世が後継者問題で悩んだので、できるだけ子を産もうと考え男子5人、女子11人の計16人の子供を授かった。その15番目の娘が悲劇のマリー・アントワネットである。政略的にフランスのルイ16世の元に15歳で嫁いで行ったが、1789年のフランス革命で38歳の若さで悲劇の生涯を終えた。
 このフランス革命の勃発は、マリー・アントワネットの宮廷内での贅沢三昧が重税に苦しむ国民の反発にあったとされるが、マリー・アントワネット像は革命側が造り上げた虚像が多いようで、「パンがなければお菓子を食べればいい。」という有名な言葉も、ルソーの「告白」の中に、さる大公夫人が「農民にはパンがない」という発言に対し、「それならブリオッシュ(パンの一種)を食べればいい。」と言ったのが原典のひとつであると言われている。

 「ウイーンのレーザル」という歌がある。今でも広く市民に歌われているが、この「レーザル」とはマリア・テレジアのことであり、歌詞が「女帝」のところになると、自然に全員が起立して敬意を表しているという。200年の歳月を経ても未だ色あせず、国民の誇りとなりうる王妃は数少ない。オーストリアをかってない繁栄に導いたことは紛れもない事実であり、それほど偉大な女王であった。

 この頃、ナポレオンの台頭によって、全ヨーロッパが動乱の時代に突入していく。
 1804年にナポレオンがフランス皇帝として即位し、神聖ローマ帝国は解体した。それでも、ハプスブルク家はオーストリア皇帝として存続していく。
 しかしながら、多民族国家であったことから、諸民族が自治を求めて立ち上がり、1867年に帝国はオーストリア帝国とハンガリー王国に二分した結果、二重帝国が成立した。

 実質的に最後の皇帝となったフランツ・ヨーゼフ1世は、1848年に18歳でオーストリア皇帝に即位し、 以後68年間その長きにわたり統治した。このフランツの皇妃がかの有名なエリザベートで、後のハンガリー王妃である。
 百合の花のように清楚で、妖精のように可憐な少女シシィと若き皇帝とのロマンスは、ウィーン市民からオーストリア国民のすべてを魅了した。
 1873年開催のウィーン万国博覧会には、博覧会の展示を見るよりも、この伝説的な美しさを賞賛するために、世界中の皇族達がウィーンを訪れたという。
 しかしながらその美貌とは裏腹に、太公妃ゾフィとの折り合いが悪く、宮廷生活になじまず、エリザベートは旅から旅の生活を始める。1889年にはルドルフ皇太子の情死事件があった。保守的な皇帝に対して自由主義的で開明的であったルドルフの死は全世界にセンセーショナルな衝撃を与え、日本の宮中も喪に服した。これもエリザベートにとっては大変なショックで、これ以降はずっと喪服でとおした。
 1898年9月、エリザベートはその旅先で暗殺されてしまう。その時、誰もが650年の長きにわたって中央ヨーロッパに君臨したハプスブルグ家の終焉を予感したという。
 
 このエリザベートをテーマにしたミュージカルも各国で多数演じられている。日本でも宝塚歌劇で今年11月6日から「エリザベート スペシャル ガラ コンサート」が上演される。

 一方、皇帝のフランツは、市民の民主化の動きを抑圧したため市民の反感をかって、1914年に皇位継承者のフランツ・フェルディナント大公夫婦がボスニアでセルビア人青年に暗殺 (サラエボ事件)された。このため、オーストリアがセルビアへ宣戦布告したことによって、第一次世界大戦が始まることになる。

  この大戦中も民族自立の運動が継続し、ハプスブルク家最後の皇帝であるカール1世は亡命し、ここに、中欧に650年間君臨したハプスブルク帝国は1918年に崩壊した。

 なお、皇帝フランツは、旧市街の周囲にあった城壁を取り壊し、その跡地に幅57m、全長約4kmのリングシュトラーセ(環状道路)を建設した。この大通り沿いのリング地区に公共施設が多数建設され、近代都市への機能を整えていった。

 ハプスブルク家は「戦争は他家にまかせておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ。」の言葉どおりに婚姻によってその勢力を拡大していった。
 最後の皇帝、カール1世の子孫は、婚姻によってスペイン、ベルギー、ルクセンブルクの君主位継承権を保持しており、将来、この一族がまた返り咲くことも十分にありうる。

 シェーンブルン宮殿 はハプスブルク家の夏の離宮として建設され、美しい泉の意味を持つ。西のヴェルサイユ宮殿とよく比較される。「会議は踊る」のウィーン会議の場所でもあり、後の皇帝フランツ・ヨーゼフとエリザベートの婚礼の式典の場でもあった。皇帝はここで二重帝国という広大な多民族国家統治の政務にあたった。ハプスブルク家最後の皇帝カール1世が退位宣言したのもこの宮殿あった。
 外観は典型的なバロック様式、宮殿内部は円熟したオーストリアロココ様式になっている。外壁の黄色は「テレジアン・イエロー」とも呼ばれているが、これは彼女の好んだ色ということではなく、夫フランツが「金にしょう 。」と言ったものの経済的な事情が許さず、彼女が黄色に決定したという。宮殿内には素晴らしい「古伊万里コレクション」も保存されている。

 なお、日本の女優の鰐淵晴子さんは、お母さんがオーストリア人で、このハプスブルク家の血を引くという。この縁で「世界・ふしぎ発見」にゲスト出演したが、あまりに無知で「御先祖様に申し訳が立たない。」とコメントしたというエピソードがある。

 
『参考文献』
  @ハプスブルク家(江村 洋著)
  Aハプスブルク家の人々(菊池良生著)
  Bハプスブルク家一千年(中丸 明著)
  Cハプスブルク家の女たち(海野 弘著)
  Dハプスブルク家12の物語(中野京子著)
  Eハプスブルク家悲劇の繁栄(加瀬俊一著)
  Fハプスブルク家在りし日の輝き(小泉澄夫著)
 
 『参考ビデオ(NHKハイビジョンスペシャル)』
  @シリーズ・ハプスブルク帝国:双頭の鷲の下に 
  A     〃       :女帝マリア・テレジア
  B     〃       :美しく青きドナウ 
  C城・王たちの物語:千年の王宮プラハ城・刻まれた民族の記憶